2009-10-23

仕事の功罪

(以下、不妊治療関連の賛否両論のあるような内容に触れる部分があるので、今そんなことを目にしたくないと思われる方はスルーしてください)

火曜から働くぞ~と気合を入れて、少々頭を使う仕事にも手を付けました。これは、面倒だったというのもあるけれど、気持の上で向き合いたくなかった仕事だったんです。
この仕事はある病気の患者さんやその家族との共同作業で、生活上の困難やニーズを調査で明らかにするというプロジェクトです。細々とではありますが10年以上のお付き合いになります。

その調査結果を再度まとめなおす作業が必要になったのですが、私の分担テーマは、患者さんの妻の回答部分で、子どもをもつことなどに対する思いなどをきくという部分が含まれています。

この調査が行われたころは私はまだ結婚して間もない時期で、子どもはまだ先、と思っていた頃でした。もちろん、自分がこんなに苦労するとは露ほども思っていませんでした。
当初は人工授精と体外受精の違いもよく知らなかったぐらいで、調査の準備のために勉強したような状況です。直接会ってお話をきいたり、調査票を通じて届くメッセージは、一つ一つが大きな思いがこめられていて、全力で受け止めているつもりではありましたが、自分が当事者になった感覚はなく、当事者にはなりえないけれどお手伝いする、という気持ちで接していました。

さて、10年前には患者さんたちは病気のために子供をもつことがかなり難しかったのですが、この数年の医療の発展によってほぼ100%危険なく、子どもをもつことが可能になってきました。調査当時から比べてもずっと技術が確立してきました。それに伴って、原稿を手直しする作業をする上で、近年の生殖医療の状況などを調べなければならなくなったのです。そうなると、嫌でも体外受精に関わる様々な論争とか、専門家の中で言われているようなことが目に入ってきます。こうなるともうすっかり当事者です。仕事として距離をもって接するなんてものではなく、わが事になってしまって思考は四方八方へ。

例えば、患者さんの夫婦で、「13組の体外受精の治療をうけた夫婦のうち11人が出産」というような結果報告があると、「すごーい、そんなに高い割合になるんだ~。あ、でも元々不妊じゃないから当たり前か・・・。そうだよね、元々不妊じゃなけりゃ100%だもんね。」などと、思ってしまいます。

また、過去の新聞記事では、米国の研究で体外受精をしている病院に対して、余剰胚の廃棄の仕方についてアンケートをとった調査結果の紹介もありました。祈りや葬儀をしているところ、当事者の立ち会いのもとに廃棄しているところ、本人たちに返しているところなど、病院によって様々な扱いがあり、当事者にとっては非常に意味のあるものなのだ、というような話でした。

そのほか、治療を辞めることを決意した患者さんをどうサポートするのか、というある病院の取り組みを紹介した論文もありました。行われているサポートは、治療をやめることを決心した後、時間が経って気持の整理が十分についた人の話を聞く機会を設けるというもので、参加した患者さんからはとても良いと評価された、というものでした。

こうした話を読むと、一つ一つはなるほどと思うのですが、余剰胚の廃棄にしても、治療のやめ時にしても、いつか自分もそんな決断を迫られる日が来るのかなあなんてことを考える方向に思考が回転していって・・・。(前者は治療がうまくいきすぎた時で、後者はうまくいかなかったときなので、それぞれの場合で状況は全然違うわけですけれど)

私にとって仕事は治療費のねん出のためにも、また治療のことから自分を切り離すためにとても大切なのですが、仕事に意識を向けてもやっぱり同じところに戻ってきてしまいました(笑)。
私が気にしている限り、何をしたって気になるってことですね。
将来、どんな決断をしなければならない場面を迎えるのか分かりませんが、それまでゆっくり考える時間をもらえたと思って、頭の隅で考えていこうと思います。

にほんブログ村 マタニティーブログ 不妊(赤ちゃん待ち)へ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿